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2024.03.26

【連載⑲】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」:カヴァー・キャスト 中川郁文さん(ソプラノ)&井出壮志朗さん(バリトン)インタビュー

WEB連載「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」では、3月23日の東京公演をもって閉幕した「コジ・ファン・トゥッテ」舞台裏の模様を引き続きレポートしてまいります。第19回は、音楽塾には欠かせないカヴァー・キャストについて。デスピーナ役のバルバラ・フリットリとドン・アルフォンソ役のロッド・ギルフリーのカヴァー・キャストを務めた中川郁文さん(ソプラノ)と井出壮志朗さん(バリトン)にお話を伺いました。


宮本 明(音楽ライター )

2月下旬から約1ヶ月間小澤征爾音楽塾のリハーサルに密着してきて、印象的だったことのひとつがカヴァー・キャストの歌手たちの存在感だった。最初に始まったリハーサルがカヴァー・キャストの音楽稽古。京都では彼らの出演する公演(子どものためのオペラ)もあるなど、このプロダクションに最も長く、そして密に関わっている演者たちだ。彼ら同士のチームワークはもちろん、制作スタッフとの結束もかたく、音楽塾ファミリーになくてはならない存在になっていた。デスピーナ役のソプラノ中川郁文とドン・アルフォンソ役のバリトン井出壮志朗に聞いた。

──今回の《コジ》いかがですか?

中川 憧れていた豪華なキャスト陣が目の前でひとつの作品を作っていく。その現場にいられることがすごく楽しく、幸せでした。

井出 とくにフリットリのような、誰もが知っているような歌手の、稽古から本番を踏むまでの段階を間近で感じられたのは良かったです。今回、フェランド役が直前に交代となり、スケジュール的にはタイトになったと思うのですけど、スタッフや音楽コーチの尽力によって、本番初日にはきっちりと素晴らしい舞台を作ることができました。音楽塾プロジェクトの力だなと思います。

──あらためて、カヴァー・キャストの役割について教えてください。

井出 基本的には、本役に何かあった時に代わりに歌うのがカヴァー・キャストの役割です。本番だけでなく、稽古を滞りなく進めるためにも必要な場合があります。カヴァーのためにたくさんの稽古を組んでくれるわけではないので、限られた稽古の中で、しっかり歌い、しっかり動けるように自分で準備するのが大事な仕事だと思います。いざ、舞台に乗らなければならなくなった時には一発で決めなければならないので。その、一発で決められるかどうかということに僕はやりがいを感じています。

中川 歌手は身体が楽器ですし、体調に不安がある時もあります。そんな時でも、自分がこの稽古に出ないと全体がスムーズに進まないのではないかとか、気負って無理をしがちじゃないですか。でも、どうしようもないことだってたくさんある。その部分を、精神的にも埋められるのが、カヴァー・キャストという役割かなと思っています。本役に一番いい状態で舞台に乗ってほしいし、そのために稽古の時に私が入るとか、いくらでもサポートさせてほしいという気持ちで、毎日稽古に臨んでいます。
でも、自分が本役の時は、カヴァー・キャストがいるとちょっとどきどきするんですよ。もしダメだったら、居場所を取られちゃうんじゃないかとか(笑)。

──今回、公開リハーサルでフリットリの代わりに中川さんが舞台に立ったことがありました。コンディション調整のためだったようですが、それこそ彼女も中川さんがいるから安心して休めたのでしょうね。あれはいつ頃言われたのですか?

中川 午後2時開演だったのですけど、連絡があったのが、ホテルを出発するぎりぎりの午前11時ぐらいでした。じつは私は、お客さんが入るリハーサルだと知らなくて。会場に行ったら事務局の方がみんな「がんばれ、がんばれ!」と声をかけてくれるので、稽古なのになんでだろうと思ったのですが、場当たりの確認のために舞台で出て初めてお客さんがいると知りました。

──カヴァー・キャストを「控え歌手」と説明されるのは不本意ですか。また似た言葉で「アンダースタディ」という言い方もあって、たとえば今回のプログラムに音楽コーチのデニス・ジオークが書いた文章では「アンダースタディ」を使っています。両者の棲み分けをどう考えればよいでしょうか。

井出 「控え歌手」は全然。むしろ控えていることを認知されることのほうがうれしいです。
僕らの感覚だと、「アンダースタディ」は、本役に何かあった時でも舞台に乗るのではなく、勉強がメイン。明確に違うかなと思うんですけど。この音楽塾に関して言えば、カヴァー・キャストも勉強することがいっぱいあるので。デニスはそういう意味で書いているのかもしれません。

──たとえば今回のフリットリは、従来のスーブレット的(「フィガロの結婚」のスザンナ役を代表とする、小粋で機転の利く侍女などを演じるソプラノの役柄)なデスピーナとは異なるキャラクターで演じていると思います。本役の歌い方やキャラクターに“寄せる”ことは要求されるのですか?

中川 演出のデイヴィッド(・ニース)からは最初に、「僕と一緒にキャラクターを作ろうね」と言われました。フリットリとは年齢も違いますし、彼女は役柄そのままのイタリア人。私がそれに寄せていったところで価値があるのか、そうじゃないだろうと。でもだからといって、よくあるコケティッシュな娘役のデスピーナのイメージも別にないと。「あなたらしさで、次のデスピーナを模索していけたらいいね」と言っていただいて。最終的に彼と一緒に作り上げたキャラクターになりました。

井出 デイヴィッドは等身大でやってもらいたいと言っていました。その中でベテランからエッセンスをもらって、自分がどう表現するか。それをすごく考えさせられるいい機会でした。

中川 井出さんはデイヴィッドから、「ドン・アルフォンソという役柄は、これから一生持っていける役だから、これはもう大きな退職金のようなものだ。この機会に君はそれをゲットできるんだよ」って言われていました。

井出 年齢によって表現も変わってくるだろうから、君ができるドン・アルフォンソをやりなさいということで。だから自分たちが出演する京都での「子どものための公演」に向けてはそういうふうに作っていったし、もしキャストが倒れて、いざジャンプインすることになれば、たぶんまた全然違う舞台になっていたと思います。

──今回ずっと見ていて、皆さんのチームワークの良さや、指揮者から事務局まで、全スタッフとの間の「ファミリー感」を強く感じました。これはどの現場で同じですか。

中川 とくにこの団体はキャストとスタッフの距離がすごく近いんですよね。コミュニケーションを常にとっていて、健康状態も含めてすごく把握されているので、ここは特別ですね。

井出 これだけ長い期間、連日稽古をして一緒にいるということは、他ではほぼないので。他の現場だと期間がもうちょっとコンパクトだったり、たとえば3日に1回のペースで稽古を進めていって、最後の1週間だけ連日とか。これだけ毎日一緒という現場は”なかなか”ないです。

──中川さんは2年連続、井出さんは3年連続の参加です。すでに実績もある二人がカヴァーとして参加する理由を教えてください。

中川 さっきの話にもつながるんですけど、このカンパニー自体、とてもあたたかいんですよね。自分のやる仕事だけに専念して安心して音楽に集中できるのは音楽塾ならではです。そして物語を作るのもプロフェッショナルが揃っているので、正解に近づける速度が速いというか。毎日の稽古が本当に面白いんです。

井出 僕の中ではワークショップみたいな一面もあって、自分に足りないエッセンスをすごくたくさんいただける。自分の成長につながる現場だと思うので、カヴァーとしてでも関わっていたいなと思います。音楽コーチや演出家、指揮者、いろんな経験をしてきた方々に自分の歌を聴いてもらってアドヴァイスをもらえるのは、ここでしかできない体験なんじゃないかな。毎年、頑張ってオーディションを受けて使っていただいてます(笑)。
自分の中で進んでいける感覚を持たないと、頭打ちになってしまうというか。毎回同じクォリティで歌っていては飽きられていくし、その程度しか歌えないという評価をされてしまうかもしれない。まだ今の年齢なら実力が見合っているかもしれないけど、年齢が上がってきた時に実力も上がっていないと、「あ、伸びなかったのね」と思われてしまうかもしれません。勉強を続けて、なおかつそれを他の仕事に生かしていくことはすごく重要なことだと思います。

中川 音楽塾の現場は英語が飛び交っていることもあって、距離感が近いというか。英語って敬語がなかったりするので、フラットな気持ちでいろんなことを質問したり、自分の意見を言ったりすることができて、作品作りに一緒に取り組めるような感覚があります。それが心地よくて、できる限り一緒に仕事させていただきたいなと思っています。

──中川さんは英語のコミュニケーション力も高いですね。

中川 日本で勉強しただけです。ミュージカルの《ウィキッド》が好きで、高校生の時に、聴いて全部覚えたんですよ。それでエセ英語を使っていたせいか、それっぽく(笑)。あとは、人としゃべるのが好きなので、刺激を受けたい、自分の気持ちを話したいという欲があって会話が上達したかなと思います。

──小澤さんはつねづね、「シンフォニーとオペラはクルマの両輪」と、器楽奏者にとってのオペラの大切さを説いていました。声楽家からの立場からは、それをどのように解釈できますか?

井出 歌手がいてドラマが生まれる時に、呼吸感が生まれるわけですよね。その呼吸感が少し違うと思うんですよ。たとえば次の感情がこうだから、こういう息の吸い方をしたから次の音がこう出る、というのは、オペラ特有のものだと思います。指揮者のディエゴ(・マテウス)も、オーケストラに向かって歌手をよく聴きなさいと、何度も言って、その呼吸感だったり、歌手が持っている音楽感だったりとかをうまく共有できるようにしてもらっている感じはあります。

中川 ストーリーがあって、そこで生きている人がいるのがオペラ。もちろんシンフォニーもその場で生きている音楽ですが、人間が演じるぶん、コンディションによって、演じる空間によって、間や表情が毎回違うと思うんです。それを一緒に楽しめるのがオペラかなと。やってきた練習をそのまま出すということがいっさいなくて、その場で起きた衝動を受けて、それが会場に広がっていく。その空間を楽しむのがオペラの一番の見どころかなと思います。いい意味でも悪い意味でも、ある意味すべてハプニングだと思うんですね。だからオーケストラの団結力はもちろん必要で、そちらの車輪は必ずありき。そこに、歌手という得体の知れないもの、どう来るかわからないものが入ってくる化学反応みたいなものがあって、その両輪ということなのかなと思っています。

──舞台上では、ピットのオーケストラとのアンサンブルはどのように作っているのですか。

井出 オーケストラをすごく聴いてます。今回フリットリを見ていても、やはりオーケストラをちゃんと聴いて歌っている。指揮者に合わせるのはもちろんなんですけど、指揮者とオーケストラは完全に一致しているわけではなく、指揮者としては先の音楽を示してあげる役割もあるわけですよね。そこにオーケストラが反応してついていく。だから歌手も同じように反応して、一緒に進んでいけるのが理想です。歌手だけが先に反応してもよくないし、オーケストラだけ先に反応してもよくない。だから、歌手が自由に歌っている場面もあるし、指揮者がイニシアティブを取っている場面もあるし、逆にオーケストラがイニシアティブを取っている場面もあるんですね。その場面場面を上手に切り替えながらやっています。

中川 ここは稽古期間も長いので、回数を多くやって、お互いの一番いいところを取るための稽古ができます。場面場面は一瞬で過ぎていきますが、やっている本人たちは、「あ、ここはこう行くのね」って、毎回しっかり感じながらやっています。

──オーケストラが歌手とのリハーサルを何度も重ねていることもあって、こんなに丁寧に弾くオペラのオーケストラって、あまりないのではないかと思います。

中川 まさにまさに! 去年の《ラ・ボエーム》の時にもその話が出てたんですけど、今まで聴こえたことのない音が聴こえるんです。辻つまを合わせるような弾き方じゃなくて丁寧に作るから。オペラだと、楽譜には書かれていない、歌手はみんな知っている暗黙の了解みたいなものがあるんですけど、そこを一緒に詰める時間が長いのもいいと思います。

井出 とくに日本のオペラ上演は、オーケストラのリハーサルは2〜3回しかなくて、歌手と1回だけ合わせて、次はゲネプロみたいなスケジュールになることがほとんど。歌手と合わせる時間が本当に限られているんですよね。海外だと、ここと同じように、稽古からオーケストラが入っていたりする。やはり共有している時間が長いほうが、オーケストラと歌手との一体感が出やすいんじゃないかと思いますね。他の公演をやりながらではなく、長い時間集中してこれだけこれだけに取り組むのですから、その完成度は全然違うと思います。
とくに、オーケストラが若いので、そのエネルギッシュな部分が、すごく《コジ》に合ってあると思うし、それをディエゴが、物語に合った形の音にしてくれる。ドラマと一致する音が出るようになってくると、歌手もそこに乗って行きやすい。一緒に音楽をしている感覚ですよね。もともと個々が素晴らしいプレーヤーなので、あとはそのまとまり方。それを勉強する場としてこの音楽塾は素晴らしいし、仕上がったものも素晴らしいと思います。

中川 パワフルさと緻密さと、若さの勢い。今回の《コジ》にも、それが全部詰まっていると思います。

井出 うまく融合してますよね。毎年水準が高いと思うんですけど、僕は今年が一番水準が高いと思います。

 


【連載】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」
イントロダクション
#1
#2 オーディションに挑む若き音楽家たち─音楽塾の“主役”、塾生オーケストラ
#3 小澤征爾音楽塾展2024
#4 歌手リハーサル開始!
#5 塾オケリハーサル初日
#6 塾オケリハーサル 2日目─楽器ごとの分奏
#7 小澤征爾音楽塾合唱団─根本卓也さん(合唱指揮)インタビュー
#8 塾オケリハーサル 3日目─弦楽パートのリハーサル
#9 塾オケリハーサル 5日目─カヴァー・キャストとの初合わせ
#10 小澤征爾音楽塾展2024─小澤征爾塾長のスコア
#11 京都リハーサル初日
#12 バックステージツアー
#13 原田禎夫副塾長のスピーチ
#14「子どものためのオペラ」とメインキャストのリハーサル
#15「子どものためのオペラ」楽器紹介編
#16 ゲネプロ
#17 元塾生・大宮臨太郎さん(NHK交響楽団 第2ヴァイオリン首席奏者/サイトウ・キネン・オーケストラ ヴァイオリン奏者)インタビュー
#18 原田禎夫副塾長インタビュー
#19 カヴァー・キャスト 中川郁文さん(ソプラノ)と井出壮志朗さん(バリトン)インタビュー
#20 本番
#21 首席指揮者 ディエゴ・マテウス インタビュー

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