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2024.03.29

【連載⑳】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」:本番

WEB連載「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」では、3月23日の東京公演をもって閉幕した「コジ・ファン・トゥッテ」舞台裏の模様を引き続きレポートしてまいります。第20回は、音楽塾の集大成となった京都、神奈川、東京での本番の模様から。


宮本 明(音楽ライター)

3月23日(土)。桜の開花を待つ上野の東京文化会館で、小澤征爾音楽塾2024《コジ・ファン・トゥッテ》の全公演が幕を下ろした。

全公演で、幕前に故小澤征爾塾長へモーツァルトの《ディヴェルディメント ト長調》K.136が捧げられた。ヴァイオリンに弦のコーチたち、後藤和子、フランチェスコ・セネーゼ、豊嶋泰嗣、川本嘉子も加わっている。事前に話を聞いた時、音楽塾副塾長の原田禎夫はこう言っていた。
「あの曲の練習の時、やはりどうしても小澤さんがやっているイメージが浮かんできちゃって、かなりきつかった。辛かったですよ。モーツァルトとしていいか悪いかということ以前に、あの曲は小澤さんが齋藤秀雄先生から受け継いだ、齋藤先生の音楽がそのまま乗り移っているような曲。ここにいるコーチみんなにとって、それぞれに思い入れのある曲なんです。小澤さんや齋藤先生につながっている、本当に特別な曲です」
コーチたち全員の思いが若い塾生の演奏に乗り移っているといったら情緒的すぎるだろうか。チャーミングなはずのモーツァルトがつらい。

そしてオペラが始まる。序曲の最初の和音から、およそ3週間にわたって指揮者・コーチから指摘されたアドバイスが次々に思い出される。よし、いいぞ。次!よし、次!と、手に汗握りながらわが子を見守る親のような気分になる。そして気づく。こんなに丁寧に弾くオペラのオーケストラは滅多にないのではないか。開放感はあってもゆるみはなく、緊張感はあっても硬さはない。リハーサル初日とは比べものにならないクォリティだが、このメンバーにとって、レパートリーはこの一曲だけ。そこに若い時間のすべてをつぎ込んできたのだから、完成度が高くても驚きはない。

歌手たちの響演は壮観だ。旬の若手を起用した2組のカップルが溌剌と弾ける。フィオルディリージ役のサマンサ・クラーク(ソプラノ)とドラベッラ役のリハブ・シャイエブ(メゾ・ソプラノ)は本当の姉妹のように息のあったデュエットを聴かせる。演技プランも念入りで、高潔を保とうと悩み深い姉、いたずらっぽい仕草で憎めない妹のキャラクター分けが絶妙だ。
フェランド役のピエトロ・アダイーニ(テノール)の歌唱は圧巻。当初予定されていたルネ・バルベラの降板で急遽起用された彼だが、よくこのレベルの代役を押さえることができたものだと感心。グリエルモ役のアレッシオ・アルドゥイーニ(バリトン)の引き締まった歌唱も印象的で、優越感に満ちた喜劇的な表情でも、天国から地獄へ転落する敗北感でも、説得力のある表現を聴かせる。


そして今回、認識を新たにさせられたのが、デスピーナとドン・アルフォンソの重要さ。バルバラ・フリットリ(ソプラノ)とロッド・ギルフリー(バリトン)、ベテラン二人の“ブッファ・チーム”の存在が効いていた。この2役がしっかりとストーリーを作ってこそ、恋人たちのから騒ぎが際立つのだ。ギルフリーは、豊かな声量で、まさにしゃべるように歌う自在なレチタティーヴォはじつに演劇的。ベテランならではの、絶対にリハーサルより余計にやってるよねと思わせる快演だった。フリットリの貫禄あるデスピーナには脱帽。なんでも知っている女中頭のようなデスピーナだ。劇的なヒロインを演じてきたフリットリがこういう役を演じるとは。新たな役柄に挑戦するプリマ・ドンナの矜持とオペラへの深い愛を感じた。

「楽観的に理性で切り抜ける人は、激しく渦巻く世界にも良き安らぎを見出すだろう」
登場人物全員によるフィナーレの六重唱。オーケストラの後奏が続き、ハ長調の和音のキレのいい連打が客席に溶けていった。
カーテンコールで、歌手たちが例外なくオーケストラ・ピットに拍手を贈るのはここならではの光景だろう。

昨秋から年末にかけて開催されたオーディションを経て選ばれた53人の塾生たちが初めて一堂に会して音を出したのは3月1日のことだ。それから約3週間、居並ぶレジェンドたちにコーチを受けながら音を重ねることで、腕利き揃いだが寄せ集めの集団だった若者たちは、同じ息づかいを共有するひとつのオーケストラへ変貌した。
一期一会の特別編成オーケストラの宿命だけれど、もし次にこの段階からスタートできたら、あるいはこのまま通年、ずっとこのペースで活動していったら、繊細でエネルギッシュなモンスター級のオーケストラができるのでないかなどと、つい妄想してしまう。

「どれだけ一緒に同じ時間を過ごしたか。オーケストラはそれが大事」
そう言ったのは小澤征爾さんだ。
じつは一度だけ、食事を同席させていただいたことがある。1988年に小澤さんがブルックナーの交響曲第7番を振ったベルリン・フィルの定期演奏会。終演後、ヴィオラの故土屋邦雄さんが食事に誘ってくださり、楽屋前で待っていたら、「ちょっと待って。いまセイジも呼ぶから」と、そのままの流れでベルリンの日本食レストランへご一緒した。
「とくに弦はトゥッティだから、どれだけ一緒に弾いたかが大事。ベルリン・フィルとかウィーン・フィルとか、ヨーロッパの伝統的なオーケストラにはそれがある。僕がもう15年(当時)も音楽監督をしているボストン交響楽団でも、そこはまだ追い付いていないところだと思う」

音楽塾オーケストラに与えられているのは短い時間でしかないけれど、そのぶん濃縮された時間が、驚くべき成果をもたらす過程は感動的だ。小澤さんはそれを毎年繰り返してきたのだ。

1992年に来日したピアニストのフリードリヒ・グルダが自作のピアノ協奏曲を新日本フィルで弾き振りした時、取材陣からそれが小澤さんが創設し、育ててきたオーケストラだと聞いてグルダは言った。「そうか。オザワはいい仕事をしてる」。
小澤さんのいい仕事。今回、音楽塾のリハーサルを間近で見ながら、その言葉を何度も思い出した。
そのいい仕事が、これからも必ずぜひ、受け継がれていくことを、心から願う。

 


【連載】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」
イントロダクション
#1
#2 オーディションに挑む若き音楽家たち─音楽塾の“主役”、塾生オーケストラ
#3 小澤征爾音楽塾展2024
#4 歌手リハーサル開始!
#5 塾オケリハーサル初日
#6 塾オケリハーサル 2日目─楽器ごとの分奏
#7 小澤征爾音楽塾合唱団─根本卓也さん(合唱指揮)インタビュー
#8 塾オケリハーサル 3日目─弦楽パートのリハーサル
#9 塾オケリハーサル 5日目─カヴァー・キャストとの初合わせ
#10 小澤征爾音楽塾展2024─小澤征爾塾長のスコア
#11 京都リハーサル初日
#12 バックステージツアー
#13 原田禎夫副塾長のスピーチ
#14「子どものためのオペラ」とメインキャストのリハーサル
#15「子どものためのオペラ」楽器紹介編
#16 ゲネプロ
#17 元塾生・大宮臨太郎さん(NHK交響楽団 第2ヴァイオリン首席奏者/サイトウ・キネン・オーケストラ ヴァイオリン奏者)インタビュー
#18 原田禎夫副塾長インタビュー
#19 カヴァー・キャスト 中川郁文さん(ソプラノ)と井出壮志朗さん(バリトン)インタビュー
#20 本番
#21 首席指揮者 ディエゴ・マテウス インタビュー
#22 番外編
#23 取材を終えて

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