【連載㉒】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」:番外編
2024年3月「コジ・ファン・トゥッテ」舞台裏の模様をレポートしてきたWEB連載「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」。次回最終回を前に、第22回は番外編をお届けします。
宮本 明(音楽ライター)
小澤征爾音楽塾と過ごした1ヶ月ほどのあいだに、取材過程で見聞きしたいくつかの短いエピソードを番外編的にお伝えしよう。
【一流の劇場人──フリットリの楽屋】
スター歌手のバルバラ・フリットリが今回、主役ではないデスピーナを演じて新境地を開拓していたのはすでにお伝えしたとおり。とはいえ、現役バリバリのオペラの女王であるのは間違いない。そんなプリマドンナに敬意を表した現場スタッフは当初、彼女に指揮者の隣の楽屋を用意した。通常は主役歌手が使う格の楽屋ということになる。しかしフリットリは言った。
「ありがとう。でもそこはフィオルディリージの楽屋よ。私の楽屋はいちばん端にしてちょうだい」
劇場人として一流であることの証だろう。一生彼女のファンでいようと思った。
【2種類の字幕】
音楽塾でも採用している日本語字幕付き上演。その字幕の投影も、当然ながら一発本番ではなく、舞台稽古中からリハーサルに余念がない。通し稽古以外でも、指揮者が止めては返すのに合わせて、何度もリハーサルを繰り返して歌詞とのリンクの精度を高めていく。その過程で訳語自体も少しずつ改訂しているようだった。
あとで聞いて驚いたのは、じつは今回、字幕が2種類あったのだということ。地元の小学6年生を招待した「子どものためのオペラ」では、児童が読みやすいように、学習済みの漢字に留意した字幕を使用していたのだ。字幕というのは、一度作ったらあとは基本的には再利用しているだけなのだとばかり思っていたのだけれど、このような用字の問題だけでなく、場合によっては文章そのものの変更を検討することもあるという。作りっぱなしではないのだ。「プロ」を感じる丁寧な仕事。
【通奏低音の二刀流】
モーツァルトの時代までのオペラの多くは、通奏低音付きのレティタティーヴォが、物語を進行するうえできわめて重要だ。とくに《コジ・ファン・トゥッテ》のレティタティーヴォは音楽的にもとても印象深い。今回の音楽塾公演ではチェンバロとチェロが通奏低音を弾いていた。チェンバロはヒューストン・グランド・オペラで首席コーチを務める鍵盤楽器奏者のキリル・クズミンが弾いていたが、チェロは塾生。話を聞くと、オーディション合格後に連絡があり、塾生2人が公演ごとに交代で弾くことが伝えられたのだそう。つまり通奏低音を弾かない日はオーケストラのチェロ・パートを弾く二刀流。とはいえ、たとえばバッハなどバロックの通奏低音を弾いた経験があるわけではなかったという。オーケストラが東京でリハーサルしているあいだに京都に前乗りして練習するなど別スケジュールをこなして臨んだ。通奏低音は、楽譜どおりに弾くだけではない、豊富な知識と経験が要求される専門職。一朝一夕でそのすべてを会得できるはずもないだろうけれど、クズミンの丁寧なリードもあって、すぐに勘所を押さえることができたようだ。あっぱれ。
【一日の時間経過を映す照明】
書割や絵を描いた幕を多用したシンプルな舞台と流行のイタリア・ブランドを思わせる淡色の衣裳は、ともに舞台美術家ロバート・パージオーラによるデザインだ。そしてここに照明(高木正人)の効果が加わることで、舞台は場面ごとにさまざまな表情を見せる。ぼーっと見ていて気が付かなかったのだけれど、バックステージ・ツアーでは照明と物語の時間経過についての説明があった。
《コジ・ファン・トゥッテ》の物語は、《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》と同様、朝始まって、次の朝までで終わる。オペラ・ブッファの典型的な構成だ。この《コジ・ファン・トゥッテ》の照明は、それをきちんと踏まえて、朝・昼・夕の光の変化を巧みに用いて作られているのだ。なるほど! 美しいものには理論がある。
【2024年問題はオペラにも影響】
3月15、17日に京都公演を終えたあと、音楽塾の《コジ・ファン・トゥッテ》は3月20日に横浜の神奈川県民ホールで上演された(その後、3月23日に東京文化会館)。当然ながら、舞台装置も京都から横浜まで運ばなければならない。3月17日午後の公演終了後に、およそ5〜6時間かけて舞台をばらす。それをトラックで横浜へ。ドライバーの休憩を含めて8〜9時間はかかるだろう。翌日ホールに到着した荷物を搬入して舞台を設営。3月19日にはもろもろのチェックが可能となる。しかしじつはこのスケジュールが可能なのは今年の3月31日までだった。
各メディアが報じているように、2024年4月1日から、トラック運転手の時間外労働が規制強化された。いわゆる物流の2024年問題。今後は拘束時間や休息時間の上限が以前より厳格に制限されるため、余裕のある日程を組むなり、今後は何らかの対応が必要になる。日常生活だと、せいぜいネットショッピングの買い物の到着が1日遅くなるのかな、ぐらいにしか実感していなかった2024年問題だが、ショービズ界には多大な影響がありそうだ。
【マテウス激写】
音楽塾はもちろん、ライフワークとして小澤さんを追い続けているベテラン写真家の大窪道治さん。もちろん今回も、現場にはつねに彼の姿があった。ある日のリハーサル前、まだ誰もいない客席で目を瞑って休んでいる大窪さんに忍び寄る影。指揮者のディエゴ・マテウスだ。ニコニコしながら手元のスマホでフォトグラファーをパチリ。SNSにUPしたりはしてないのかな。
【連載】「小澤征爾音楽塾のオペラができるまで」
イントロダクション
#1
#2 オーディションに挑む若き音楽家たち─音楽塾の“主役”、塾生オーケストラ
#3 小澤征爾音楽塾展2024
#4 歌手リハーサル開始!
#5 塾オケリハーサル初日
#6 塾オケリハーサル 2日目─楽器ごとの分奏
#7 小澤征爾音楽塾合唱団─根本卓也さん(合唱指揮)インタビュー
#8 塾オケリハーサル 3日目─弦楽パートのリハーサル
#9 塾オケリハーサル 5日目─カヴァー・キャストとの初合わせ
#10 小澤征爾音楽塾展2024─小澤征爾塾長のスコア
#11 京都リハーサル初日
#12 バックステージツアー
#13 原田禎夫副塾長のスピーチ
#14「子どものためのオペラ」とメインキャストのリハーサル
#15「子どものためのオペラ」楽器紹介編
#16 ゲネプロ
#17 元塾生・大宮臨太郎さん(NHK交響楽団 第2ヴァイオリン首席奏者/サイトウ・キネン・オーケストラ ヴァイオリン奏者)インタビュー
#18 原田禎夫副塾長インタビュー
#19 カヴァー・キャスト 中川郁文さん(ソプラノ)と井出壮志朗さん(バリトン)インタビュー
#20 本番
#21 首席指揮者 ディエゴ・マテウス インタビュー
#22 番外編
#23 取材を終えて